近年、三田地域では、マンションも増えて移り住む方も多くなってきました。住んでいる地域の故事来歴を知ると、日ごろの通勤通学の途中や散歩中でも、また別の視点で回りを見ることができるのではないでしょうか。
こちらのページで古川流域近辺地域のことのほんのさわりをご紹介します。また、港区立郷土歴史館が2018年(平成30年)に白金台の「ゆかしの杜」に開館しました。建物は、昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。
こちらで、港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり、歴史を知り、交流できる施設です。
古川
渋谷川・古川は、かつて葛飾北斎が「富嶽三十六景」で「穏田水車」を描き、安藤広重が「名所江戸百景」で「広尾ふる川」を描くなど、清らかな流れと明媚な自然を呈する川であり、また、農家の生活用水や農業用水として使われるなど、古くから人々と深い関わりを持ってきました。
名所江戸百景 広尾ふる川
出典:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312258
出典:国立国会図書館書誌データ(2021年12月2日に取得)
江戸時代~明治初期
江戸時代の渋谷川は、四谷大木戸から引かれた玉川上水の落とし水と新宿御苑、明治神宮の湧き水等を源水としながら、現在の渋谷駅の近くで宇田川と合流して天現寺橋に至り、笄(こうがい)川と合流して古川となって河口まで流れていました。
幕府の都市計画の一環として、当時の江戸湊の河口であった金杉橋から四之橋までの間で舟入工事が進められ、大名屋敷を中心とした市街地が形成されていきました。大名屋敷への荷の積み下ろしなど、川沿いには荷揚場や河岸が立ち並び、特に一之橋より下流では舟運が盛んに行われていました。
芝三田二本榎高輪辺絵図
出典:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286663
出典:国立国会図書館書誌データ(2021年12月2日に取得)
現在の済生会中央病院・赤羽小学校あたりの築後久留米藩有馬家は、代々増上寺の「火の御番」を引き受け、屋敷内に高さ約9メートルの火の見やぐらを組んだといわれ、邸内には、参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるよう、文政元年(1818)、国元久留米より御分霊された水天宮がありました。その後、水天宮は1872年明治4年には青山、翌年には日本橋蛎殻町へと移転しました。
また講談等で有名な有馬家の「化け猫騒動」の退治された猫の塚が小学校体育館裏手にあり、建立された猫塚の碑が保存されています。(校内には入れません)
東都名所芝赤羽根増上寺
出典:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307374
出典:国立国会図書館書誌データ(2021年12月2日に取得)
明治以降
維新後、大名屋敷は、様々にその持主を変えていきました。久留米藩邸は明治4年に工部省製作寮となり、1915年(大正4年)には済生会中央病院が設立され、1923年(大正12年)に府立第六高等女学校(現在の都立三田高校)・1926年(大正15年)に赤羽小学校が開校されるというように、藩邸は華族の屋敷や学校に変わっていきます。
久留米藩の跡地辺りは1872年(明治5年)に赤羽橋の傍らにあることから赤羽町と名付けられました。また、神明坂の西側は1869年(明治2年)各寺地を併せて三田小山町と名付けられ、さらに1872年(明治5年)華族黒田邸(黒田甲斐守邸)及び松平邸(郡山藩邸)を合わせて拡張しました。中の橋から一の橋までの古川に沿ったところが新門前町と名付けられました。
明治初期の古川の流れは豊かで、この豊富な水量を活かして、河の両岸ではいくつもの水車業が営まれていました。しかしこの水車業は1901年(明治31年)に淀橋浄水場が完成し、およそ250年続いた玉川上水の落とし水が無くなったため、古川の水量が減り、さらに後年の電力の普及と相まって衰退していきました。
明治中期~昭和初期
明治時代も中期に入ると「富国強兵・殖産興業」の下に、河口から一之橋にかけて国営工場や多くの民間工場が造られました。以降、古川の上流や渋谷川沿いにも次々と工場、商店、住宅が進出し、流域の都市化が急速に進んでいきます。
<唱歌「春の小川」(大正元年)は、渋谷川の支流で、現在は暗渠となっている河骨川をうたったものといわれています>
こうした都市化に伴い、大正時代の後期には治水を目的とした河川改修工事が始まり、昭和6年には渋谷川・古川のほぼすべての区間で護岸が完成しました。
また、太平洋戦争による空襲被害から、三田小山町付近は奇跡的に免れました。
大正10年1921年 地図
出典:港区HPより https://www.city.minato.tokyo.jp (2021年12月2日に取得)
https://www.city.minato.tokyo.jp/shibamachitan/shiba/koho/documents/shiba_kochizu.pdf
昭和中期~現在
昭和20年代以降、渋谷川・古川沿いは、小規模な機械金属工場を中心に、工場地帯として活気づいていきました。反面、人々の多くは川に背を向け、川を排水路として利用したため、生活排水や工場排水の捨て場となり、川は汚れ続けました。
昭和39年、東京オリンピックの開催は、戦後、日本が進めてきた経済復興政策の集大成として幹線道路や高速道路、下水道、住宅等の社会資本の整備に取り組む契機となりました。古川では、首都高速道路の建設により、ほとんどの区間で高架橋により河川上空が覆われ、また渋谷川の上流部分や河骨川、宇田川、笄川などの支流は暗渠化され、下水道幹線となっていきました。
現在では集中豪雨対策の地下放水路も完成しています。
平成18年2006年 地図
出典:港区HPより https://www.city.minato.tokyo.jp (2021年12月2日に取得)
https://www.city.minato.tokyo.jp/shibamachitan/shiba/koho/documents/r45-2084_map_gendai.pdf
現在の町名である三田一丁目は1967年(昭和42年)の住居表示実施による町名変更より、赤羽町・三田小山町・新門前町が一緒になったものです。
また、三田かいわいは各国大使館がありますが、これらの大使館も大名屋敷から華族の邸宅になったところに移ってきたようです。オーストラリア大使館は蜂須賀侯爵家の邸宅を1952年に買い取ったとのことで、イタリア大使館は伊予松山藩邸から松方正義公爵の屋敷だったところへ1932年に移ってきたとのことです。両大使館とも大名庭園の名残が大事に残されているようです。
(参考資料)
東京都 渋谷川・古川河川整備計画
都立図書館デジタルアーカイブ
港区ホームページ
国立国会図書館デジタルアーカイブ
水天宮ホームページ